今は昔、芥川というところに、たいそう弓の上手な武士が住んでいた。その射る矢は百発百中で、近郷から遠くの土地まで、その名が知られていた。なかでも、夜の闇の中で動く獣を射当てる腕前にかけては、当時並ぶ者がないと言われていた。
很久以前,在芥川一帶,住著一位弓術極為出眾的武士。 他射出的每一支箭都百發百中,其聲名遠播於近郡遠鄉。 尤其在黑夜中射中行走野獸的本事上,被譽為當代無人能及。
しかし、この武士には一つの奇妙な癖があった。何事に対しても疑い深く、他人の言葉を簡単には信じないという性格であった。とりわけ「化け物」や「物の怪」の類いについては、頭から否定して遠慮しなかった。
然而,這位武士有一個奇怪的脾性。 他對一切都極為多疑,不輕易相信他人之言;尤其對於「妖怪」與「物怪」之類,更是從頭到尾地加以否認。
ある秋の夜、武士は数人の家来を連れて、山中へ狩りに出かけた。月明かりの下、紅葉に彩られた山道を進むうちに、彼らはふと、一軒の古びた寺に行き着いた。寺は長らく放置されているらしく、庭には雑草が生い茂り、本堂の扉は朽ち果てて半ば外れかけていた。
某年秋夜,武士帶著幾名家臣進入山中狩獵。 月光之下,他們沿著染上紅葉的山路前行,不知不覺間,便來到一座破舊的古寺前。 寺看上去已被荒廢多年,庭院裡雜草叢生,本堂的門也腐朽不堪,已半掛半脫。
家来の一人が、声を落として武士に告げた。「お館様、この寺には恐ろしい物の怪が住み着いていると、近隣の村々では申しております。今宵はどうか、ここに留まらず、ふもとの集落まで下りられませ」と。
一名家臣壓低聲音對武士說道:「主公,附近的村中都傳言,這座寺中住著可怕的物怪。 今晚還請勿留宿於此,下山到山腳的村落去吧」。
武士はそれを笑い飛ばし、「物の怪などこの世に存在するはずがない。それは、臆病者が自分の弱さを正当化するために作り出した幻にすぎない」と取り合わなかった。「今宵はこの寺で夜を明かし、明朝、もう一度山へ入るとしよう」と、彼はきっぱりと告げた。
武士冷笑一聲,「物怪之類,世上根本不存在。 那不過是怯懦之人為自己的軟弱辯護,所臆造出的幻象罷了」,便一笑置之。 「今晚就在這寺中過夜,明日清晨再上山狩獵」,他語氣堅決地說道。
家来たちはためらいながらも従うほかなく、本堂の片隅に火を起こして、夜露をしのぐことになった。武士は弓と矢筒を傍らに置き、壁にもたれて静かに座った。火の光が壁に映す影は、揺らめいては伸び、伸びてはまた揺らめいた。
家臣們無奈只得遵從,在本堂的一角點起火來,以避夜露。 武士將弓與箭筒放在身旁,靠牆安然而坐。 火光映在牆上的影子,時而搖曳延伸,時而又延伸搖曳。
夜半を過ぎた頃のことだった。本堂の奥のほうから、何やら不気味な音が聞こえ始めた。床板がきしむような、あるいは低くうめくような音で、それは次第にこちらへと近づいてくるのが分かった。
夜半之後的事了。 本堂深處,傳來一陣令人毛骨悚然的聲響。 那聲響如地板呻吟,又似低低的嗚咽,分明在一點點地逼近。
家来たちは恐怖に震え上がり、刀の柄に手をかけて身を縮めた。しかし武士はまったく動じる気配もなく、弓を手に取り、ゆっくりと矢を一本つがえた。「来るならば来い。化け物だろうと盗賊だろうと、我が矢で射落としてくれよう」と、彼は冷静に呟いた。
家臣們驚懼得渾身顫抖,紛紛握住刀柄縮起身子。 然而武士卻毫無動搖之態,他取過弓,緩緩搭上一支箭。 「來便來吧。 無論妖怪還是盜賊,皆可被我此箭射倒」,他冷靜地低聲說道。
やがて、本堂の奥の障子の向こうに、巨大な人影が浮かび上がった。その影は、人のそれにしてはあまりにも大きく、肩幅もまた異様であった。家来の一人は気を失いそうなほど息を呑み、もう一人は声にならない叫びをあげようとした。
不多時,本堂深處的紙障子後方,浮現出一個巨大的人影。 那影子之於人來說實在過大,肩寬也異乎尋常。 一名家臣幾乎昏厥地屏住呼吸,另一名則想喊卻喊不出聲來。
武士は少しも躊躇することなく、矢をつがえたまま弓を引き絞り、その影の胸のあたりを目がけて、放った。鋭い空気の切り裂かれる音に続いて、凄まじい悲鳴が本堂を震わせた。影はその場にどうと倒れ伏した。
武士毫不猶豫,箭仍搭在弓上,將弓拉滿,瞄準那影子的胸口處便射了出去。 鋒利的破空之聲後,淒厲的慘叫震動了整個本堂。 那影子轟然倒在了原地。
しかし武士はそれでも油断せず、矢を二本目つがえて構えをほどかなかった。家来たちは身を寄せ合いながら、夜明けの来るのを今か今かと待ち続けた。明け方近くになって、ようやく障子の奥からは何の物音も聞こえなくなった。
但武士仍然沒有鬆懈,又搭上一支箭,沒有解除架勢。 家臣們彼此相依,急切地等待天明。 臨近黎明時分,紙障子的另一側,終於再也沒有聲響傳來。
東の空が白み始めた頃、武士はようやく立ち上がり、慎重に障子を開けた。そこに倒れていたのは、見上げるほどに大きな、年老いた一匹の老狐であった。その腹には武士の矢が深々と突き刺さり、すでに息絶えていた。
東方天色泛白之時,武士才緩緩起身,謹慎地拉開了紙障子。 倒在那裡的,是一隻大到令人需要仰望、年歲已久的老狐。 牠腹部深深地插著武士那一箭,已經斷氣。
「これは長年この山に棲み、人を化かしては命を奪っていたとされる老狐に違いない」と、家来の一人が震える声で言った。武士もまた、その大きさと老いた毛並みを見て、深く息を呑んだ。寺に迷い込んだ旅人や狩人を、化け物として襲っていたのは、まさにこの狐だった。
「這必定就是相傳多年棲息於此山、化人形奪取性命的那隻老狐」,一名家臣聲音顫抖地說道。 武士也為牠的體型與年深的毛色暗自吸氣。 多年來在寺中迷路的旅人與獵人,被當作妖怪所襲擊的,正是這隻狐。
朝の光のもとで、武士は静かにその狐のなきがらを見下ろしながら、しばし思いに沈んだ。「自分は化け物などこの世にあるはずがないと言い切ったが、ここにこうして、人を化かす狐がいた。自分の眼で見たもののみを信じるという信条が、今宵に限ってはたまたま当たっただけだ」と、彼は心ひそかに呟いた。
在朝光之下,武士靜靜地俯視著狐的屍骸,沉思了良久。 「我曾斷言世上不可能有妖怪,可眼下卻確有這麼一隻化人形的狐。 我那唯眼見為信的信條,今夜不過是偶然撞上了真相而已」,他在心中暗自低語。
「世の中には、自分の知らない不思議が、まだまだあるのかもしれぬ。他人の言葉を頭から否定するのは、自分の傲慢でしかない」── 武士は、今宵の出来事をきっかけに、自分の中の心の狭さを深く振り返って反省した。
「這世上或許還有許多我所未知的不可思議之事。 一概否定他人之言,不過是我自身的傲慢罷了」——武士藉這一夜之事,深深反省了自身心中的狹隘。
一行が山を下りて村に至ると、村人たちは武士の話を聞いて口々に喜びの声を上げた。「あの恐ろしい老狐を仕留めてくださったとは、まことにありがたいことでございます。長年、あの寺を恐れて夜の山に近寄ることもできなかった我らの苦しみが、これでようやく晴れまする」と、村の長は深々と頭を下げた。
一行人下山到了村中,村人聽了武士所述,紛紛發出歡喜之聲。 「主公能將那可怕的老狐除去,實乃我等之大幸。 多年來畏懼那寺、不敢於夜間靠近山林的痛苦,至此終於能得釋懷」,村長深深叩首致謝。
事のいきさつは、まもなく宮中にも伝わるところとなった。帝はその勇気と弓の腕前を讃え、武士に厚い恩賞を授けた。武士もまた、自身の弓の技を誇るというよりは、むしろ謙虚な面持ちで、それを受け取った。
此事不久也傳到了宮中。 陛下嘉其勇氣與弓術之精,賜予武士厚重的賞賜。 武士本人,與其說是炫耀其射藝,倒不如說是以謙遜之姿恭敬地接受了。
このように、弓の腕前が優れているだけでなく、未知の存在に対して敬う気持ちを持つこともまた、武士たる者の真の務めであると、後世まで語り継がれている。今は昔、そのような強く立派で、思慮深い武士が、この国にはいたのである。
如此一來,世人代代相傳:弓術超群尚不足夠,對未知之物心懷敬畏,方才是武士真正的本分。 很久以前,便有這般剛毅而又深思之武士,存於這片國土之上。