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JLPT N1日常生活

少子高齢化社会

祖母の住む過疎の町を出発点に、年金・労働力・少子化など日本の少子高齢化の諸相を見つめる随想。

祖母の住む町に降り立つたびに、駅前の風景が少しずつ削がれていくのを実感します。商店街のアーケードはかつての賑わいが嘘のように静まり返り、シャッターを下ろしたままの店舗が軒を連ねています。八百屋の跡地は雑草に覆われ、写真屋の看板は色褪せて読み取れません。十年前まではここに行列ができていたという話が、もはや遠い昔話のように響くのです。

駅から祖母の家までの道のりは、徒歩で十五分ほどです。途中ですれ違うのは、決まって杖をついた高齢者か、買い物袋を提げた中年の方ばかりで、子どもの声を耳にすることはほとんどありません。小学校の校庭からは、かつて聞こえていた歓声が消えて久しく、近隣の三校が統合されたとの貼り紙が役場の前に出ていました。地方の現実を目の当たりにすると、統計の数字がにわかに生々しい肌触りを帯びてきます。

祖母は今年で八十七歳になります。朝五時には起き出して仏壇に手を合わせ、庭の野菜に水をやってからラジオ体操に出かけるのが日課です。同じ集落に住む同年代の友人たちと公民館の前で落ち合い、十分ほど体を動かしてから世間話に花を咲かせる――この時間こそが何にも代えがたい生きがいなのだと、祖母は繰り返し口にします。健康であってこその日常だと、当人が誰よりも自覚しているのです。

ところが、その輪も年々小さくなっているといいます。去年は三人が施設に移り、ひとりは静かに息を引き取りました。残された者にとって、隣家の灯りが消えていくことの寂しさは、外から眺める者には推し量るべくもないでしょう。それでも祖母は、明日の予定を語るときばかりは、少女のような笑顔を見せるのです。

買い物の不便さは年々深刻さを増しています。徒歩圏内のスーパーが昨年閉店し、最寄りの店まではバスを乗り継いで片道四十分を要します。週に二度、移動販売の軽トラックが集落を巡回してくれるおかげで、辛うじて新鮮な野菜や魚を手に入れることができている状況です。この販売車が廃止されようものなら、ここでの暮らしは立ち行かなくなりかねません。

医療の事情も似たり寄ったりです。診療所の医師は七十代後半で、後継者がいまだ見つからないと聞きました。月に一度の通院ですら、家族の付き添いなくしては成り立たない高齢者が増えており、隣町の総合病院までタクシーを使う日には、年金の大半が一日で消えてしまうそうです。地方の医療を支える仕組みは、もはや個々人の善意に頼るだけでは限界に達しています。

都市部に目を転じれば、また別の様相が浮かび上がります。東京の通勤電車には依然として人があふれ、再開発のクレーンが空を覆っていますが、団地の集会所では孤独死を防ぐための見守り活動が静かに続けられています。隣人の顔を知らぬまま何十年も暮らす匿名性ゆえに、都市の高齢化は地方とは異なる難しさを抱えているのです。

少子化の進行も、もはや看過に堪えないところまで来ています。昨年の出生数は七十万人を割り込み、政府の予測すら大幅に下回りました。子育て世代への経済的支援が拡充されつつあるとはいえ、住宅費や教育費の重圧、長時間労働の慣行を抜本的に改めずして、流れを反転させることはきわめて難しいでしょう。表層的な施策のいかんによっては、かえって不公平感を煽る結果になりかねません。

労働力の不足は、すでに様々な現場で顕在化しています。建設、介護、運輸、農業――いずれの業界でも人手の確保に四苦八苦しており、外国人材の受け入れ拡大を余儀なくされています。技能実習制度の見直しが進められていますが、来日した方々が安心して長く働ける環境を整えなくしては、持続的な解決には程遠いというのが実情です。

年金制度の持続性も、避けては通れぬ論点です。現役世代の負担は増す一方であり、世代間の公平性をいかに保つかが問われています。受給開始年齢の引き上げや支給額の調整は政治的に重い決断を伴いますが、議論を先送りにしたところで、状況が好転するわけではありません。先延ばしにすればするほど、将来世代に重荷を背負わせる結果になるのは火を見るより明らかです。

一方で、悲観一色というわけでもありません。元気な高齢者が地域の担い手として活躍する場面は、確実に広がりつつあります。祖母の集落でも、七十代の方々が中心となって耕作放棄地を菜園に再生し、収穫物を学校給食に納める取り組みを始めました。長年培ってきた知恵と経験を踏まえて若い世代に伝授する姿には、高齢社会ならではの強みが宿っているように思えます。

技術の力で課題を緩和しようとする動きも加速しています。介護ロボットや見守りセンサー、自動運転バスの実証実験が各地で進められ、人手の不足を補う仕組みが少しずつ形を成してきました。むろん技術だけで全てが解決するべくもないにせよ、人間の温もりを補完する道具として活かせる余地は大きいはずです。

世代を超えた対話の重要性も、近頃ようやく認識され始めました。高齢者の経験談に耳を傾けることで、若者は人生の長い射程を学び取れますし、高齢者もまた、若者と接することで時代の変化に柔軟に適応していけます。互いを資源と見なし合う関係性こそが、これからの社会に求められる姿勢ではないでしょうか。

少子高齢化は一朝一夕に解決できる問題ではないまでも、社会全体で知恵を出し合い、持続可能な仕組みを構築していくほか道はありません。祖母の町の現実から目を背けることなく、しかし悲嘆に暮れるのでもなく、淡々と打つべき手を打ち続ける――そんな粘り強さこそが今、私たちに求められているのだと思います。次の世代に希望ある社会を残すべく、今こそ一人ひとりが議論に加わり、行動を起こさねばなりません。