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JLPT N1日常生活

日常生活におけるAI

スマートスピーカーから生成AIまで、便利さに浸る一日を通して、人間が手放しつつあるものを見つめる。

朝、目覚まし代わりにスマートスピーカーに天気を尋ねるようになった。それからというもの、私は新聞を開く習慣をほとんど失ってしまった。「今日の傘は要りますか」と聞けば、温度や降水確率もさることながら、花粉の量や通勤路の混雑状況まで、求めてもいない情報が次から次へと返ってくる。便利さといったらありはしないが、自分の頭で天気を読む力は、確実に衰えつつある。

通勤電車の中では、動画アプリが「あなたへのおすすめ」を絶え間なく流し続ける。指で軽く弾いただけで、私が昨日見たもの、つい先週検索したもの、果ては数年前に一度だけ覗いた趣味の動画まで、見透かしたように並べてくる。アルゴリズムにかかっては、本人すら忘れていた興味の断片までもが、商品として再構成されてしまうのだ。

職場に着くと、まず生成AIに今日のメールの下書きを頼むのが、いつの間にか日課になっていた。先日、取引先への謝罪文をAIに任せたところ、文面はあまりにも完璧で、かえって心がこもっていないように響いた。「お詫び申し上げます」と書きはしたものの、書いたのは私ではない。送信ボタンを押す指が、一瞬ためらった。

部長から「君、最近文章がうまくなったね」と言われたときには、苦笑いするほかなかった。褒められて悪い気はしないにせよ、それが自分の力でない以上、素直には喜べない。「ありがとうございます」と返しながら、私は心の中で、AIではあるまいし、本当の自分の言葉はどこへ行ったのかと自問していた。

昼休み、同僚の田中さんと近くの定食屋へ向かう道すがら、翻訳アプリの話になった。先週、彼は出張先のホテルで、フロント係に「シャワーのお湯が出ない」と伝えようとして、アプリに「お湯」を「temperature」と訳されてしまったらしい。「英語ができぬ身としては頼るほかないんだが、ときどき笑えないことになる」と田中さんは肩をすくめた。

機械翻訳の精度はこの数年で目覚ましく向上したとはいえ、文化的な含みや言葉の温度までを正確に伝えるには、まだ及ばない部分がある。「お疲れさま」を直訳すれば、相手は奇妙な顔をするだろう。言葉の背後にある関係性や場の空気は、データだけでは汲み取れないのだ。

午後の会議では、議事録の自動生成ツールが活躍した。発言者の名前と発言内容を、ほぼ正確に書き分けてくれる。手書きでメモを取る必要がなくなった分だけ、議論そのものに集中できるようになり、その点は素直にありがたい。

ただ、便利さの裏に潜む不安を顧みず使い続けることには、どこか落ち着かなさがある。会議の音声はすべてクラウドに送られ、解析され、保存される。誰がいつ何を言ったか、永久に検索可能な記録として残るというのは、考えるだに窮屈な気がしてならない。

帰宅途中、駅前の防犯カメラが、すれ違う人の顔を片端から認識しているという記事を思い出した。安全のためだといえども、許可なしに顔のデータが収集され、企業や行政のサーバーに蓄積されていく現状は、プライバシーの侵害にもほどがある。便利さと引き換えに私たちが差し出しているものの大きさを、もっと真剣に考えるべき時期に来ているのかもしれない。

家に着くなり、子どもがタブレットでAIキャラクターと会話していた。「ねえ、私のこと好き」と無邪気に尋ねる娘に、画面の中の優しい声は、迷う間もなく「もちろんだよ」と答える。心のこもった返答であるかのように娘は笑うが、その声には体温も、ためらいも、本当の意味での記憶もない。

寝かしつけのあと、妻と二人で居間に座り、AIに将来代替されにくい職業のニュース番組を見た。「うちの仕事もそのうち危ないんじゃないの」と妻が冗談めかして言う。単純作業のみならず、デザインや翻訳、果ては医療診断に至るまで、専門職ですらAIに置き換えられつつあるという報道を、笑ってばかりもいられない。

技術の進歩を押して新たな職業が生まれるという楽観論もあるが、移行期に取り残される人々への手当てなしには、社会の分断を招きかねない。再教育の機会も与えられず、一夜にして職を失った人に、「君もAIを使いこなせばいい」と言ったところで、何の慰めにもならないだろう。

責任の所在をいかに定めるかという問題も、ますます切実になっている。自動運転車が事故を起こしたとき、その責めを負うべきは開発者か、所有者か、それともAIそのものか。従来の法的枠組みをもってしては対応しきれない事態が、現実に起こり始めている。

医療現場でも、AIによる画像診断の精度は人間の医師を上回ることがあるという。だが、診断が外れたとき、誰が患者に説明し、誰が責任を取るのか。アルゴリズムの判断であれ、人間の判断であれ、最終的に責任を引き受ける主体がいなければ、患者は救われないままになってしまう。

教育現場では、宿題をAIに丸投げする生徒が後を絶たないと聞く。考える力を育てるべき時期に、自ら考えることを放棄してしまえば、その代償は数年後、十数年後に確実に表れる。便利な道具に頼ることそれ自体は悪ではないが、頼り方を誤れば、人間が人間でなくなる日も、そう遠くないのかもしれない。

それでも、私はAIを全否定したいわけではない。介護現場で見守りを助けてくれるAIや、視覚に障害のある人の目になってくれる音声案内アプリは、紛れもなく人間の生活を豊かにしている。技術そのものに善悪はなく、ただ使い手の知恵と覚悟が問われているにすぎない。

寝室の電気を消す前、私はもう一度スマートスピーカーに「明日の朝、七時に起こして」と頼んだ。「はい、明日の七時にアラームをセットしました」と、人工の声が静かに返してくる。便利さに溺れることなく、人間としての判断力を手放さずにAIと付き合っていく道を探ること、それこそが今を生きる私たちに課せられた、地味で重要な宿題なのだと信じたい。

— 完 —