祖母の箪笥の引き出しを開けると、色褪せた手紙の束が几帳面に紐で結ばれて並んでいる。差出人は祖父であり、戦地から、出張先から、あるいは隣町の宿から、几帳面な万年筆の字で日々の些事を綴ったものだ。一通読むのに数分とかからないが、その一通が届くまでに祖母は幾日も待った。待つという時間そのものに意味が宿っていたことは、想像にかたくない。
電話が一般家庭に普及したのは、戦後の高度成長期を皮切りにしてのことであった。黒い受話器を握りしめ、遠い土地にいる息子の声を初めて耳にした母親が、言葉に詰まって泣いてしまったという話を、私は祖母から幾度となく聞かされた。距離が消えるという感覚は、当時の人々にとってまさに革命であったのだろう。
しかし、その革命にも値段はあった。市外通話の料金表は壁に貼られ、子どもたちは三分という時間を意識して話すよう躾けられた。長電話を叱る親の声は、今となっては懐かしい風景である。声が届くという奇跡の代償として、人々は時間を計りながら言葉を選ぶ術を覚えた。
九十年代の半ば、職場にメールというものが入ってきたとき、上司たちは戸惑いを隠さなかった。「これを送って失礼にあたらないだろうか」と何度も書き直す姿は、今思えば微笑ましいものであった。電話一本で済んでいた連絡が、文章として残るようになり、言葉の重みが俄かに変質し始めた。
携帯電話の登場は、コミュニケーションのあり方を根底から覆したと言っても過言ではない。待ち合わせ場所を決めずに街へ出るという行為が、若者の間で当たり前になった。「今どこ」という一言で全てが片付くようになり、約束という概念そのものが希薄になっていった。
メールが廃れ、SMSがLINEへと移り変わるまで、さほどの歳月を要さなかった。スタンプ一つで感情を伝え合うやり取りは、文字を綴る労を省くと同時に、言葉そのものを軽くもした。便利になればなったで、伝えるべきものが伝わらないという奇妙な現象が頻発するようになる。
「既読」という二文字が学生たちの心を疲弊させていると、ある高校の養護教諭が嘆いていた。送ったメッセージが読まれたか否か、読まれたなら何分以内に返信が来るか、来ないならそれは何を意味するのか。返事を待つ間の不安は、祖母が手紙を待った数日のそれとは、明らかに質が異なる。
大学のゼミ生に話を聞くと、グループラインで既読を付けるタイミングを巡って人間関係が壊れることすらあるという。返信が遅れるくらいなら最初から読まないほうがましだと、彼女は真顔で語った。便利な道具に振り回される姿は、いささか皮肉と言わざるを得ない。
会社に目を転じれば、隣の席の同僚にすらチャットで用件を済ませる光景が日常になっている。声を出すことが憚られる雰囲気の中、キーボードを叩く音だけが響くオフィスは、私が新入社員だった頃の喧騒からは想像もつかない。効率は確かに上がったのだろう。しかし、何かが確実に失われている。
私の知る限り、最も寂しさを覚えたのは、退職する先輩への送別会がオンラインで行われた日である。画面越しに乾杯の真似事をしながら、私たちは一体何を共有していたのだろうか。直接顔を合わせてこそ伝わるものがある、ということを、皮肉にも画面を通して痛感した次第であった。
ストーリーズと呼ばれる、二十四時間で消える投稿の流行も興味深い現象である。残らないからこそ気軽に発信できるという論理は、手紙を箪笥に大切にしまった祖母の世代には、理解しようにもできないものであろう。記録に残すことこそが愛情の証であった時代と、消えることこそが気楽さの証である時代の落差は、あまりにも大きい。
そして近頃は、生成AIに文面を考えてもらってから送信するという者が、若い世代を中心に増えているという。返信の文案を機械に練らせ、それを微調整して送る。受け取った相手もまた、AIに要約させて読むのかもしれない。コミュニケーションの両端から人間が後退していく光景は、にわかには信じがたい。
無論、技術そのものを断罪するつもりは毛頭ない。手紙の時代に戻れと説いたところで、誰も耳を貸すまい。手段は手段にすぎず、それを使う人間の心持ち次第で、温かくも冷たくもなる。問題は道具ではなく、道具の向こうにいる相手をどれだけ思いやれるかという、ただ一点に尽きる。
先日、地方に住む母から、久しぶりに手書きの葉書が届いた。庭の柿が色づきました、という他愛もない一文に添えられた、母の癖のある字を眺めていると、画面で何百通のメッセージを受け取るよりも、はるかに深く心に届くものがあった。伝えるとは何か、その原点を、私は不意に思い出した気がした。
技術がいかに進化しようとも、人と人とが心を通わせるという営みの本質は、容易には変わるまい。ただ、その本質を見失わぬよう、時折立ち止まって考えることが、これからの時代にこそ求められているのではあるまいか。祖母の引き出しの手紙の束は、今もそっと、そのことを語りかけているように思える。