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JLPT N1物語

今昔物語より

化け物の存在を信じぬ弓の達人が、ある秋の夜、山中の古寺で老狐と出会う物語。

今は昔、芥川というところに、たいそう弓の上手な武士が住んでいた。その射る矢は百発百中で、近郷から遠くの土地まで、その名が知られていた。なかでも、夜の闇の中で動く獣を射当てる腕前にかけては、当時並ぶ者がないと言われていた。

しかし、この武士には一つの奇妙な癖があった。何事に対しても疑い深く、他人の言葉を簡単には信じないという性格であった。とりわけ「化け物」や「物の怪」の類いについては、頭から否定して遠慮しなかった。

ある秋の夜、武士は数人の家来を連れて、山中へ狩りに出かけた。月明かりの下、紅葉に彩られた山道を進むうちに、彼らはふと、一軒の古びた寺に行き着いた。寺は長らく放置されているらしく、庭には雑草が生い茂り、本堂の扉は朽ち果てて半ば外れかけていた。

家来の一人が、声を落として武士に告げた。「お館様、この寺には恐ろしい物の怪が住み着いていると、近隣の村々では申しております。今宵はどうか、ここに留まらず、ふもとの集落まで下りられませ」と。

武士はそれを笑い飛ばし、「物の怪などこの世に存在するはずがない。それは、臆病者が自分の弱さを正当化するために作り出した幻にすぎない」と取り合わなかった。「今宵はこの寺で夜を明かし、明朝、もう一度山へ入るとしよう」と、彼はきっぱりと告げた。

家来たちはためらいながらも従うほかなく、本堂の片隅に火を起こして、夜露をしのぐことになった。武士は弓と矢筒を傍らに置き、壁にもたれて静かに座った。火の光が壁に映す影は、揺らめいては伸び、伸びてはまた揺らめいた。

夜半を過ぎた頃のことだった。本堂の奥のほうから、何やら不気味な音が聞こえ始めた。床板がきしむような、あるいは低くうめくような音で、それは次第にこちらへと近づいてくるのが分かった。

家来たちは恐怖に震え上がり、刀の柄に手をかけて身を縮めた。しかし武士はまったく動じる気配もなく、弓を手に取り、ゆっくりと矢を一本つがえた。「来るならば来い。化け物だろうと盗賊だろうと、我が矢で射落としてくれよう」と、彼は冷静に呟いた。

やがて、本堂の奥の障子の向こうに、巨大な人影が浮かび上がった。その影は、人のそれにしてはあまりにも大きく、肩幅もまた異様であった。家来の一人は気を失いそうなほど息を呑み、もう一人は声にならない叫びをあげようとした。

武士は少しも躊躇することなく、矢をつがえたまま弓を引き絞り、その影の胸のあたりを目がけて、放った。鋭い空気の切り裂かれる音に続いて、凄まじい悲鳴が本堂を震わせた。影はその場にどうと倒れ伏した。

しかし武士はそれでも油断せず、矢を二本目つがえて構えをほどかなかった。家来たちは身を寄せ合いながら、夜明けの来るのを今か今かと待ち続けた。明け方近くになって、ようやく障子の奥からは何の物音も聞こえなくなった。

東の空が白み始めた頃、武士はようやく立ち上がり、慎重に障子を開けた。そこに倒れていたのは、見上げるほどに大きな、年老いた一匹の老狐であった。その腹には武士の矢が深々と突き刺さり、すでに息絶えていた。

「これは長年この山に棲み、人を化かしては命を奪っていたとされる老狐に違いない」と、家来の一人が震える声で言った。武士もまた、その大きさと老いた毛並みを見て、深く息を呑んだ。寺に迷い込んだ旅人や狩人を、化け物として襲っていたのは、まさにこの狐だった。

朝の光のもとで、武士は静かにその狐のなきがらを見下ろしながら、しばし思いに沈んだ。「自分は化け物などこの世にあるはずがないと言い切ったが、ここにこうして、人を化かす狐がいた。自分の眼で見たもののみを信じるという信条が、今宵に限ってはたまたま当たっただけだ」と、彼は心ひそかに呟いた。

「世の中には、自分の知らない不思議が、まだまだあるのかもしれぬ。他人の言葉を頭から否定するのは、自分の傲慢でしかない」── 武士は、今宵の出来事をきっかけに、自分の中の心の狭さを深く振り返って反省した。

一行が山を下りて村に至ると、村人たちは武士の話を聞いて口々に喜びの声を上げた。「あの恐ろしい老狐を仕留めてくださったとは、まことにありがたいことでございます。長年、あの寺を恐れて夜の山に近寄ることもできなかった我らの苦しみが、これでようやく晴れまする」と、村の長は深々と頭を下げた。

事のいきさつは、まもなく宮中にも伝わるところとなった。帝はその勇気と弓の腕前を讃え、武士に厚い恩賞を授けた。武士もまた、自身の弓の技を誇るというよりは、むしろ謙虚な面持ちで、それを受け取った。

このように、弓の腕前が優れているだけでなく、未知の存在に対して敬う気持ちを持つこともまた、武士たる者の真の務めであると、後世まで語り継がれている。今は昔、そのような強く立派で、思慮深い武士が、この国にはいたのである。

— 完 —