JLPT N1 · 日常生活 に戻る
JLPT N1日常生活

メディアリテラシーの重要性

LINEのチェーンメッセージ、加工された動画、教室での新聞読み比べ——日常の場面から情報との向き合い方を考える。

朝、目を覚ますや否や、私は枕元のスマートフォンに手を伸ばしてしまう。X(旧ツイッター)のタイムラインを親指で流し始めた途端、地震速報、芸能ゴシップ、政治の暴露記事、見知らぬ国の戦況、化粧品の広告までが、何の脈絡もなく目に飛び込んでくる。ものの五分で、頭の中はすでに情報の渋滞である。

このような朝の光景は、もはや私一人に限ったことではないだろう。総務省の調査によれば、日本人の一日当たりの情報接触時間は年々増加しており、可処分時間の大半をスクリーンに費やしている人も少なくない。情報の量が爆発的に増えたにもかかわらず、それを吟味する力は、必ずしも比例して育っているとは言いがたい。

先日、母から一通のLINEが届いた。「これ本当らしいよ、気をつけてね」という文面の下に、ある食品添加物が癌を引き起こすと断言する長文が貼り付けられていた。出典は明示されておらず、文末には「拡散希望」とだけある。読むに堪えない陰謀論まがいの主張だったが、母は善意で送ってきたのだ。

頭ごなしに否定すれば角が立つ。私はまず厚生労働省のサイトを開き、当該添加物の評価書を確認した上で、「お母さんが心配してくれるのは嬉しいけど、これは事実と違うみたい」と返した。母は素直に「そうなんだ、ごめんね」と返してくれたが、こうしたチェーンメッセージを律儀に転送する高齢者は決して珍しくない。

問題は、悪意ある発信者が、まさにそうした善意の連鎖を計算ずくで利用していることだ。フェイクニュースの拡散速度は、正確な情報のおよそ六倍に達するという研究もある。感情を揺さぶる虚偽は、地味な事実よりも遥かに「シェアされやすい」のである。

先月、駅前の交差点で警官が市民を暴行している、という動画がSNSで爆発的に拡散された。コメント欄は怒りの声で埋め尽くされ、警察への抗議電話が殺到したという。ところが翌日、その動画は別の国で数年前に撮影されたものを加工した偽物であることが判明した。一度燃え上がった怒りは、訂正記事ごときでは到底鎮まらない。

生成AIの登場で、事態はさらに深刻になった。ディープフェイクと呼ばれる偽動画は、もはや専門家ですら一目では見抜けない域に達している。総理大臣が支離滅裂な発言をしている映像、有名俳優が詐欺商材を宣伝する広告——いずれも、本人が一言も発していない「言葉」が、本人そっくりの声と顔で世に出回るのだ。

こうした状況にあって、教育現場の役割は計り知れない。先日、近所の中学校の公開授業を見学した。そこでは、国語の教師が新聞記事三紙を生徒に配り、同じ事件をどう報じているかを比較させていた。「見出しの言葉づかいに注目してください」と教師が言うと、生徒たちは真剣な顔で赤ペンを走らせていた。

「『容疑者が認めた』と『容疑を認める供述をした』では、印象がどう違いますか」。教師の問いに、ある生徒が手を挙げた。「前者は犯人だと決めつけている感じがします」。批判的に読むという素養は、まさにこうした地道な訓練の積み重ねなくしては身につくべくもない。

家庭での実践も欠かせない。我が家では、小学生の娘がタブレットで動画を見ていて「これ本当?」と聞いてくることが増えた。即答せず、「じゃあ一緒に調べてみようか」と、複数の情報源にあたる習慣を一緒に育てるようにしている。親が範を示してこそ、子も自然に学ぶというものだろう。

メディア側の責任もまた、決して軽くはない。視聴率や閲覧数の獲得にかまけて、扇情的な見出しを乱発するような報道姿勢は、報道機関としてあるまじき行為と言わざるを得ない。誤報を出したならば、訂正を一面でしっかりと伝えるのが筋であろう。

その点、公共放送のラジオ番組は健闘していると感じる。先週たまたま聴いた特集では、SNSで流れた健康情報がなぜ誤りなのかを、専門家がデータを示しながら丁寧に解説していた。地味だが、こうした番組こそ、長期的には信頼を築く土壌になる。

一方で、アルゴリズムが作り出すフィルターバブルの問題も無視できない。自分が「いいね」を押した投稿に似た内容ばかりが推薦され、気づけば同じ思想の声しか耳に入らなくなる。異なる意見を「敵」とみなす分断の温床は、まさにこの仕組みの中で日々静かに育っているのだ。

私自身、意識して「自分と意見が違いそうな書き手」をフォローリストに加えるようにしている。読んでいて不快になることもあるが、自分の盲点を埋めるには、心地よさを多少犠牲にする覚悟が要る。耳に心地よい情報のみを摂取していては、思考はやがて痩せ細っていく。

結局のところ、メディアリテラシーとは、技術や知識である以前に、立ち止まる勇気の問題なのかもしれない。指が「シェア」ボタンに触れる直前の、わずか数秒の躊躇。その一瞬を持てるかどうかが、健全な世論と歪んだ情報空間を分ける分水嶺なのだ。

今日もまた、私は朝のタイムラインに目を落とす。流れてくる情報の奔流の前で、ときに立ち止まり、ときに疑い、ときに調べる——その地味な作業を、生活の中の習慣として手放さずにいたいと、しみじみ思う。

— 完 —