金曜の夜、仕事を終えて1Kのアパートに帰ると、玄関を開けたが早いか、室内の静けさが私を出迎える。今日一日、声を出して話したのは、昼に立ち寄ったコンビニの店員と、宅配便の配達員に「ありがとうございます」と返した、その二度きりだった。冷蔵庫の音だけがやけに大きく響く部屋で、私は自分が一人であることを改めて自覚する。
スマートフォンを取り出し、家族のLINEグループを開いてみる。三日前の母の「今日は雨ね」というメッセージで時間が止まっていて、未読も既読も、新しい通知の一つすら浮かんでいない。返事をしようにも、何を書けばよいのか思いつかない。沈黙そのものが日常になってしまったのだと、いまさらながらに気づく。
インターネットで世界中と繋がれる時代にあって、孤独を訴える人がこれほど増えているのは、なんとも皮肉な現象だ。SNSをのぞけば友人の充実した週末が次々と流れてくるが、画面越しの賑わいは、こちらの静けさを慰めるどころか、かえって際立たせる。「いいね」の数がいかに増えようと、心の隙間が埋まるべくもない。
孤独は若者には無縁のものという思い込みこそ、問題の発見を遅らせるきらいがある。総務省の調査によれば、二十代の単身世帯はこの三十年で大きく増え、相談相手が「いない」と答える割合も無視できない水準に達している。助けを求めたくとも、誰に頼ればよいのか分からないまま、画面を見つめて夜を明かす若者は少なくない。
高齢者の孤独はさらに目に見えにくい。同じ階に住む八十代の女性が、いつのまにか町内会の回覧板を回さなくなっていたことに、私は半年以上気づかずにいた。後で聞けば、足を悪くしてから外出が減り、家族とも疎遠になっていたという。隣人の顔すら知らないご時世にあっては、誰の異変も気づかれぬまま静かに進行していく。
「無縁社会」という言葉が広まって久しいが、その実態は年々深刻さを増している。引き取り手のない遺骨が自治体に保管される件数は増加の一途をたどり、孤独死は決して特別な出来事ではなくなった。死してなお無縁であるという現実は、想像するだに重い。
職場の人間関係もまた、かつてのような濃密さを失いつつある。リモートワークの普及により、同僚と顔を合わせる機会は激減した。便利さもさることながら、雑談の中で生まれる小さな信頼関係が失われた損失は、数字には表れにくい。
会議の終わりに「お疲れさまでした」と画面に向かって告げ、ボタン一つで世界から切り離される。その瞬間の静寂は、オフィスの喧騒を懐かしく思わせるほどだ。同じプロジェクトを半年共にした相手の素顔も知らないというのは、考えてみれば異様なことではあるまいか。
都市の匿名性は、自由と引き換えに繋がりを差し出す取引のようなものだ。誰にも干渉されない気楽さの裏側で、誰にも気にかけてもらえないという冷たさが息を潜めている。隣の部屋から物音一つしない夜、その静けさを心地よく感じる日もあれば、耐えがたく感じる日もある。
日本政府がイギリスにならって孤独・孤立担当大臣を設置したのは、二〇二一年のことだった。一国の政策課題として孤独を扱うこと自体、もはや個人の問題として片付けるわけにはいかない事態であることを物語っている。長期にわたる社会的孤立は、一日十五本の喫煙に匹敵する健康リスクがあるとの研究もあり、公衆衛生上の課題としても看過できない。
地域では、誰でも立ち寄れる「居場所カフェ」のような試みが少しずつ広がっている。不登校の中学生、子育てに疲れた母親、定年後に行き場を失った男性が、同じテーブルで温かい飲み物を分け合う光景は、何気ないようでいて、現代社会において貴重な風景だ。何かを話さなくてもよい、ただそこにいてよいという許しが、人を救うことがある。
もっとも、こうした取り組みだけで孤独が解消するわけではない。制度や場所を用意したところで、そこへ足を運ぶ最初の一歩を踏み出せない人が、最も支援を必要としている人々であるという矛盾がある。本当に孤独な人ほど、自分が孤独であると認めることを恐れるものだ。
私自身、誰かに「寂しい」と打ち明けるくらいなら、一人で平気だと装うほうがましだと長らく思ってきた。弱さを見せることは、社会人としての沽券に関わるのではないかという思いが、どこかにあったからだ。だが、その強がりこそが、孤立を深める一因だったのかもしれない。
ある日、職場の後輩が「最近、夜が長くて」とぽつりと漏らしたとき、私はとっさに「分かるよ」と答えた。たった一言のやり取りだったが、その短い会話を境に、私たちは時折ランチをともにするようになった。劇的な変化ではないにせよ、確かに何かが変わった。
孤独そのものを完全に消し去ることはできないし、その必要もないだろう。一人でいる時間が人を成熟させる側面もまた、否定しがたい。問題なのは、繋がりたいのに繋がれない孤独、声を上げたいのに上げられない孤独だ。
土曜の朝、私はベランダに出て深呼吸をする。向かいの棟のベランダで、見知らぬ住人が同じく洗濯物を干していて、目が合うと軽く会釈を交わす。たったそれだけのことが、なぜかその日一日を少し軽くしてくれる。
現代に生きる私たちに必要なのは、大層な解決策ではなく、こうしたささやかな目配せの積み重ねなのかもしれない。誰もが孤独を完全には逃れられないという前提に立った上で、それでもなお互いに小さな声をかけ合うこと、その地道な営みを抜きにしては、繋がりを取り戻す道は開けないように思う。