晋の太元年間のことである。武陵の地に、漁師として暮らしを立てる一人の男がいた。彼は日々小舟を操り、川をさかのぼっては魚を捕り、貧しいながらも穏やかな日々を送っていた。

ある春の日のこと、漁師はいつものように谷川をさかのぼっていた。岸辺の風景に見とれるうちに、自分がどれほどの距離を進んだか、まるで分からなくなっていた。気がつけば、見覚えのない場所まで来ていた。

ふと顔を上げると、両岸はことごとく桃の花で埋め尽くされていた。数百歩にもわたって、桃以外の木は一本も交じらず、よい香りの草が地を覆い、桃色の花びらが風に乗ってはらはらと散り落ちていた。川面にも花びらは幾重にも浮かび、舟はまるで花の流れの上を行くように進んでいった。それは、人の世のものとは思えないほど美しい光景だった。

漁師は、これほどの桃の林をかつて見たことがなかったので、不思議に思いながらもなお舟を進めた。「この花の林はどこまで続くのだろうか」と、彼はひとりつぶやいた。やがて、桃の林は山のふもとで終わった。

そこには小さな山があり、ふもとに猫の額ほどの穴が口を開けていた。穴の奥からは、かすかに光が漏れているように見えた。漁師は思わず舟を岸につけ、その光に誘われるように、穴へと足を踏み入れた。

入口こそ、ようやく人一人が通り抜けるほどの狭さだったが、しばらく進むうちに、突如として目の前が開けた。彼は、思わず息を呑んで立ち止まった。

そこには、ゆるやかに開けた平地が広がっていた。整然と区切られた田畑、こざっぱりとした家々が連なり、そのあいだを桑や竹が緑濃く茂っている。あぜ道は東西南北にめぐらされ、どこからか鶏の鳴き声や、犬の遠吠えが聞こえてくる。

行き交う人々の身なりは、いささか古風ではあったが、男も女も、老人も若者も、皆ゆったりとした足取りで、楽しげに語らいながら歩いている。誰一人として、憂いを帯びた顔をしていなかった。それはまさに、桃源郷ならではの光景だった。