JLPT N1 · 日常生活 に戻る
JLPT N1日常生活

「生きがい」の哲学

農夫、若いイラストレーター、退職した銀行員—生きがいを生きる人々の肖像を通して、その概念を見つめ直す。

「生きがい」という言葉ほど、訳しように訳せない日本語も珍しい。英語に直そうにも、purposeでもreason to liveでもしっくりこず、結局そのままikigaiと書かれることが多い。近年では、英語の辞書にもそのままの形で項目が立つに至った。

語源を辿れば、動詞「生きる」に「甲斐」という古語が結びついた合成語である。「甲斐」とは、行為に見合うだけの値打ちのことを意味する。つまり生きがいとは、生きるという営みそのものに釣り合うだけの手応えを指していると言ってよい。

この概念を学問として正面から扱った最初の本は、精神科医神谷美恵子が一九六六年に世に出した『生きがいについて』であった。彼女がハンセン病の療養所で患者たちと向き合った長い歳月の中から紡ぎ出された言葉は、半世紀以上を経てもなお新鮮な響きを失っていない。生きがいとは、未来への希望でもあれば、過去への納得でもあり、現在の充足でもあるという。何かひとつに還元しようとしてできるものではないのだと、彼女は繰り返し書いている。

岡山県の山あいに、田中さんという八十四歳の農家がいる。毎朝五時には起き、まだ薄暗い畑に出て、トマトやナスの様子を見て回るのが日課である。腰は曲がり、指は土に染まって黒い。それでも畑に立つときの彼の表情は、不思議なほど若々しい。

「畑があるから、朝が来るのが楽しみでね」と田中さんは笑う。年金だけでも暮らせるが、収穫した野菜を近所に配って回ること、その「ありがとう」のひとことが何より嬉しいのだという。生きがいとは、こうした日々の小さな循環の中に宿るものなのかもしれない。

一方、東京で働く二十四歳のイラストレーター佐藤さんは、まったく別の角度から生きがいを語る。締め切りに追われる夜中、ペンを走らせている瞬間、時間が消える感覚があるのだという。「描き始めるが早いか、気づけば朝になっているんです」と彼女は言う。

世間からすれば不安定極まりない働き方ではあるが、佐藤さんに後悔はないらしい。月末の家賃の支払いに四苦八苦する日々ではあるものの、絵を描かない人生など考えるだに息苦しいのだそうだ。若い世代における生きがいは、しばしばこうした没入の喜びと結びついている。

近年、海外で「ikigaiダイアグラム」なるものが大流行している。「好きなこと」「得意なこと」「世の中が必要としていること」「お金になること」の四つの円が交わる中心に生きがいがあると説く図である。しかし、これは厳密に言えば日本における伝統的な生きがい観とはかなり異なるものだ。

神谷美恵子の議論を踏まえて言えば、生きがいは必ずしも収入や社会的成功を要件とはしない。むしろ報酬を度外視してもなお続けたいと思える何かこそが、本来の生きがいに近い。西洋的な合理性で図式化しようにも、本来は割り切れない感情の領域なのである。

沖縄の大宜味村に、百歳を超える長寿者の親睦会がある。村の集会所に集まり、三線を弾き、歌い、近況を語り合う。研究者たちは、こうした繋がりあっての長寿だと指摘してやまない。「あの人に会わなくては」という小さな約束の積み重ねが、結果として人を生かしている。

その意味で、生きがいは一人で完結するものではない。誰かに必要とされている、誰かを気にかけているという関係性なくして、生きがいは成立しがたい。孤独死が社会問題化している現代日本において、この点はあまりに重い示唆を含んでいる。

戦後の高度成長期、多くの日本人男性は仕事に生きがいの一切を委ねてきた。会社のために働き、出世のために働き、家族を養うために働いた。それ自体は決して責められるべきことではないが、定年を境に、燃え尽きたように生気を失う高齢者が後を絶たない。

「自分はもう、何の役にも立たない人間だ」と漏らす元会社員の声を、私は地域の福祉施設で何度も聞いた。仕事一筋で生きてきたゆえに、仕事を失ったとき、自分が誰なのかわからなくなってしまう。これは個人の問題というよりも、社会全体が背負わざるを得ない構造的な課題である。

近年、退職後に書道や陶芸、合唱団などに新しい生きがいを見出す高齢者が増えている。横浜市の七十一歳の元銀行員は、退職を機に始めた書道で、今では地域の教室を任されるまでになった。「会社員時代より忙しいくらいですよ」と笑う表情は、現役の頃よりむしろ生き生きとしているように見える。

生きがいの形は、世代によっても時代によっても変わる。育児に生きがいを見出してきた母親世代があれば、推し活に救われていると公言する若者もいる。終末期医療の現場で長年働いてきたある看護師の話によれば、死を目前にした患者が口にするのは、地位や財産のことではなく、誰かと過ごした何でもない時間のことだという。

「もっと働けばよかった」と言い残して亡くなる人はいない。海辺を妻と歩いた夕暮れ、子供の運動会の弁当、長年通った喫茶店のマスターとの何気ない会話。そうした、当時は何の意味も持たないように見えた瞬間こそが、後になって人生の輝きとして思い返されるのだという。

結局のところ、生きがいとは何かと問われれば、答えは人の数だけあるとしか言いようがない。畑の土であれ、絵筆であれ、孫の笑顔であれ、それを失ったら自分でなくなってしまうと感じる何か。それこそが、その人にとっての生きがいなのだろう。

慌ただしく流れていく日々の中で、自分にとっての「甲斐」とは何か、ときに立ち止まって考えてみるのも悪くないのではないだろうか。

— 完 —