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JLPT N1日常生活

コミュニケーションの進化溝通方式的演變

祖母の手紙の束からAIの代筆まで、伝え合うことの変遷を辿る随筆。從祖母珍藏的舊信到AI代筆的訊息,回望人們「傳達」方式的百年變遷。

祖母の箪笥の引き出しを開けると、色褪せた手紙の束が几帳面に紐で結ばれて並んでいる。差出人は祖父であり、戦地から、出張先から、あるいは隣町の宿から、几帳面な万年筆の字で日々の些事を綴ったものだ。一通読むのに数分とかからないが、その一通が届くまでに祖母は幾日も待った。待つという時間そのものに意味が宿っていたことは、想像にかたくない。

拉開祖母衣櫥的抽屜,裡面整整齊齊地放著一捆已經褪色的舊信,用細繩仔仔細細地綁著。 寄信人是祖父——有的是從戰地寄回來的,有的來自出差途中,還有的是從鄰鎮的小旅館寄出。 每一封都用鋼筆工工整整地寫滿了日常瑣事。 隨手抽出一封讀完不過幾分鐘,可祖母為了等這一封,卻得等上好幾天。 等待這件事本身,在那個年代承載著怎樣的意義,是不難想像的。

電話が一般家庭に普及したのは、戦後の高度成長期を皮切りにしてのことであった。黒い受話器を握りしめ、遠い土地にいる息子の声を初めて耳にした母親が、言葉に詰まって泣いてしまったという話を、私は祖母から幾度となく聞かされた。距離が消えるという感覚は、当時の人々にとってまさに革命であったのだろう。

電話進入一般家庭,是從戰後高度成長期開始的。 一位母親第一次握著黑色聽筒,聽見遠方兒子的聲音,竟一時語塞,當場哭了出來——這個故事,祖母不知對我講過幾次。 距離消失了的那種感受,對當時的人們來說,簡直就是一場革命。

しかし、その革命にも値段はあった。市外通話の料金表は壁に貼られ、子どもたちは三分という時間を意識して話すよう躾けられた。長電話を叱る親の声は、今となっては懐かしい風景である。声が届くという奇跡の代償として、人々は時間を計りながら言葉を選ぶ術を覚えた。

然而這場革命也是有代價的。 長途電話的費率表貼在牆上,孩子們從小就被叮嚀要記得三分鐘這個時間關卡。 父母責備小孩講電話講太久的情景,現在回想起來,已是令人懷念的風景。 作為「聲音能跨越距離」這項奇蹟的代價,人們學會了一邊看著時鐘、一邊斟酌用詞的本事。

九十年代の半ば、職場にメールというものが入ってきたとき、上司たちは戸惑いを隠さなかった。「これを送って失礼にあたらないだろうか」と何度も書き直す姿は、今思えば微笑ましいものであった。電話一本で済んでいた連絡が、文章として残るようになり、言葉の重みが俄かに変質し始めた。

九〇年代中期,電子郵件第一次進入辦公室時,主管們對此毫不掩飾自己的困惑。 「這樣寄出去會不會失禮? 」他們反覆改稿的樣子,如今想來頗為可愛。 原本一通電話就能解決的聯絡,開始以文字的形式留存下來,言語的分量也突然開始變調。

携帯電話の登場は、コミュニケーションのあり方を根底から覆したと言っても過言ではない。待ち合わせ場所を決めずに街へ出るという行為が、若者の間で当たり前になった。「今どこ」という一言で全てが片付くようになり、約束という概念そのものが希薄になっていった。

手機的登場,可以說徹底顛覆了溝通的形態,這並不為過。 在年輕人之間,沒約好碰面地點就直接出門逛街,漸漸成了家常便飯。 一句「你在哪? 」就把一切搞定了,「約定」這個概念本身也愈來愈淡薄。

メールが廃れ、SMSがLINEへと移り変わるまで、さほどの歳月を要さなかった。スタンプ一つで感情を伝え合うやり取りは、文字を綴る労を省くと同時に、言葉そのものを軽くもした。便利になればなったで、伝えるべきものが伝わらないという奇妙な現象が頻発するようになる。

電子郵件式微,簡訊被LINE取代,這之間並沒有花上多少時光。 一個貼圖就能傳達情緒的對話,省去了組織文字的辛勞,卻也讓言語本身變得輕飄飄的。 愈是便利之後又有新的便利,奇妙的是,該傳達的東西反倒愈來愈傳不出去了。

「既読」という二文字が学生たちの心を疲弊させていると、ある高校の養護教諭が嘆いていた。送ったメッセージが読まれたか否か、読まれたなら何分以内に返信が来るか、来ないならそれは何を意味するのか。返事を待つ間の不安は、祖母が手紙を待った数日のそれとは、明らかに質が異なる。

某高中的校護曾感嘆,「已讀」這兩個字正在折磨著學生們的心。 訊息有沒有被讀? 讀了的話,幾分鐘之內會回? 不回又代表什麼? 等待回訊時的那份不安,與祖母為了等一封信而度過的那幾天,在質感上明顯是兩回事。

大学のゼミ生に話を聞くと、グループラインで既読を付けるタイミングを巡って人間関係が壊れることすらあるという。返信が遅れるくらいなら最初から読まないほうがましだと、彼女は真顔で語った。便利な道具に振り回される姿は、いささか皮肉と言わざるを得ない。

我向大學專題課的學生請教時,有人說,光是因為群組裡點開「已讀」的時機不對,朋友關係都可能因此破裂。 她一臉認真地告訴我,與其晚回,倒不如一開始就別點開。 被原本應該方便的工具反過來牽著鼻子走的模樣,不能不說帶著幾分諷刺。

会社に目を転じれば、隣の席の同僚にすらチャットで用件を済ませる光景が日常になっている。声を出すことが憚られる雰囲気の中、キーボードを叩く音だけが響くオフィスは、私が新入社員だった頃の喧騒からは想像もつかない。効率は確かに上がったのだろう。しかし、何かが確実に失われている。

把目光轉向公司,連對隔壁座位的同事都改用通訊軟體傳訊息,早已是日常的光景。 在那種不太方便出聲的氛圍裡,辦公室只剩下敲鍵盤的聲音——這與我剛進公司時那種熱鬧的場面,簡直無從聯想。 效率確實是提高了。 但確確實實,有什麼東西正在流失。

私の知る限り、最も寂しさを覚えたのは、退職する先輩への送別会がオンラインで行われた日である。画面越しに乾杯の真似事をしながら、私たちは一体何を共有していたのだろうか。直接顔を合わせてこそ伝わるものがある、ということを、皮肉にも画面を通して痛感した次第であった。

就我個人感受最深的而言,最寂寞的一刻,是一位前輩退休時的歡送會改在線上舉行的那一天。 隔著螢幕做出乾杯的動作,我們到底在分享些什麼? 「有些東西,唯有當面才傳得到」——這件事,我竟諷刺地透過螢幕,深深地體會到了。

ストーリーズと呼ばれる、二十四時間で消える投稿の流行も興味深い現象である。残らないからこそ気軽に発信できるという論理は、手紙を箪笥に大切にしまった祖母の世代には、理解しようにもできないものであろう。記録に残すことこそが愛情の証であった時代と、消えることこそが気楽さの証である時代の落差は、あまりにも大きい。

那種被稱為「限時動態」、二十四小時之後就消失的貼文,其流行也是個耐人尋味的現象。 「正因為不會留下,才敢隨便發」——這種邏輯,對於把信件珍重地收進抽屜裡的祖母那一代人來說,恐怕想理解也理解不來。 在那個「留下記錄才算情誼深厚」的年代,與這個「消失才算瀟灑」的年代之間,落差實在過於懸殊。

そして近頃は、生成AIに文面を考えてもらってから送信するという者が、若い世代を中心に増えているという。返信の文案を機械に練らせ、それを微調整して送る。受け取った相手もまた、AIに要約させて読むのかもしれない。コミュニケーションの両端から人間が後退していく光景は、にわかには信じがたい。

而最近聽說,年輕世代裡愈來愈多的人,會先讓生成式AI幫自己想好回訊的文案再送出。 讓機器擬好回覆的草稿,自己稍作調整後傳出去。 收到訊息的對方,說不定也是請AI幫忙摘要之後才看的。 人類從對話的兩端同時悄悄退場——這樣的景象,一時間令人難以置信。

無論、技術そのものを断罪するつもりは毛頭ない。手紙の時代に戻れと説いたところで、誰も耳を貸すまい。手段は手段にすぎず、それを使う人間の心持ち次第で、温かくも冷たくもなる。問題は道具ではなく、道具の向こうにいる相手をどれだけ思いやれるかという、ただ一点に尽きる。

當然,我並沒有要全盤否定技術的意思。 即便高呼「回到寫信的時代去」,恐怕也沒人會聽。 手段終究只是手段,溫不溫暖,全看使用它的人懷著怎樣的心情。 問題不在工具本身,而僅僅在於——隔著工具的那一端,我們究竟願意為對方多付出幾分體貼。

先日、地方に住む母から、久しぶりに手書きの葉書が届いた。庭の柿が色づきました、という他愛もない一文に添えられた、母の癖のある字を眺めていると、画面で何百通のメッセージを受け取るよりも、はるかに深く心に届くものがあった。伝えるとは何か、その原点を、私は不意に思い出した気がした。

前幾天,住在中南部的母親,難得寄來一張手寫的明信片。 「院子裡的柿子也染上顏色囉」——這樣一句無關痛癢的話,配上母親那有些獨特的字跡,竟比螢幕上幾百則訊息更深地觸動了我。 所謂「傳達」究竟是什麼,我彷彿一瞬間想起了它最初的模樣。

技術がいかに進化しようとも、人と人とが心を通わせるという営みの本質は、容易には変わるまい。ただ、その本質を見失わぬよう、時折立ち止まって考えることが、これからの時代にこそ求められているのではあるまいか。祖母の引き出しの手紙の束は、今もそっと、そのことを語りかけているように思える。

不論技術如何演進,人與人之間用心相待這件事的本質,恐怕都不會輕易改變。 可正因如此,在這接下來的時代裡,我們才更需要時不時停下腳步,去思考如何不要丟失這份本質。 祖母抽屜裡那一捆舊信,現在似乎仍然靜靜地,向我訴說著這個道理。

— 完 —