東京・中野の六畳ワンルームに住む三十二歳の会社員、佐藤さんは、毎月の家賃に十二万円を支払っている。築四十年の建物で、洗濯機は廊下に置かれ、窓を開ければ隣のマンションの壁が目の前に迫る。それでも駅まで徒歩五分、深夜まで開いているコンビニが三軒あるという利便性は、地方では望むべくもない都市生活ならではの贅沢である。
一方、二年前に岡山県の山あいの集落へ移住した田中夫妻は、月三万円の古民家を借り、庭で野菜を育てながら、夜には満天の星空を見上げる暮らしを送っている。空気は澄み、子どもは野山を駆け回り、近所からは採れたての野菜が頻繁に届く。都会では金を積んだところで得られない種類の豊かさが、そこには確かにある。
コロナ禍を境に、地方移住への関心は急速に高まった。総務省の調査によれば、東京圏からの転出超過が続いた時期もあり、それまで地方創生を叫べど叫べど動かなかった人の流れが、初めて明確に逆転したのである。リモートワークの普及があっての変化であり、通勤という鎖から解放された層が、住む場所そのものを根本から問い直し始めた。
ただし、ブームの熱に浮かされた移住が、必ずしも幸福な結果をもたらすとは限らない。地方の現実は、SNSで流れてくる田園風景の写真からは決して見えてこない。実際に住んでみてはじめて、想像と現実の落差に愕然とする移住者は少なくないのである。
田中さん夫妻が最初に直面したのは、車なしには生活が成り立たないという厳然たる事実だった。最寄りのスーパーまで八キロ、病院に至っては片道三十分の運転を強いられる。公共交通機関は一日数本のバスのみで、それすら来年には廃線になるという噂が絶えない。
地域コミュニティとの関わり方も、移住者にとって看過しがたい課題と言えよう。都会の匿名性に慣れた人間が、濃密な近所付き合いに戸惑うことも少なからずある。地元の慣習はおろか、ゴミ出しのルール一つとっても、新参者には分からないことだらけなのが実情だ。