夜更けにすまんね、わざわざ来てもらって。実はここ数日、ずっと頭を離れない問いがあるんだ。我々が絶対的だと信じて疑わない真理とは、所詮、人間の限られた認識能力が作り出した幻想に過ぎないのではないか、と。
這麼晚把你叫出來,真是不好意思。 其實這幾天,有一個問題始終縈繞在我腦海。 我們深信不疑的所謂絕對真理,歸根結底,不就是人類有限的認知能力所製造出的一種幻覺嗎?
それはまた古典的な、しかし避けては通れない問いね。確かに、いかなる高度な科学をもってしても、宇宙の深淵を完全に理解することには無理がある。けれども、だからといって全ての真理が相対的な虚無だと言い切るのも、極まりない飛躍ではないかしら。
這是個古典卻避無可避的問題。 誠然,無論何等高深的科學,要徹底洞悉宇宙的深淵都是力有未逮。 然而,因此便斷言一切真理皆為相對的虛無,這本身豈不也是一種極端的跳躍?
では、君にとっての真理とは一体何なのか聞かせてほしい。時代や文化の変遷とともに、正義や道徳の基準すらも絶えず揺れ動いているというのに。
那麼,我想聽聽對你而言,真理究竟是什麼。 要知道,正義與道德的標尺,也隨著時代與文化的變遷而不斷動搖。
永遠不変の実体など存在しないかもしれない。しかし、その不完全さを自覚しつつも、真の理解へと近づかんがため絶え間なく対話を続けるプロセスそのものにこそ、人間の尊厳があるのではないかしら。
永恆不變的實體,或許並不存在。 然而,在自覺於這種不完美的同時,為了向真正的理解靠近而持續對話的過程本身,正是人類尊嚴之所在,不是嗎?
答えのない問いを問い続けること自体が、我々の存在証明だというわけか。なんとも骨の折れる作業だが、思考を放棄した精神は死んだも同然だからな。
對沒有答案的問題不斷追問,本身便是我們的存在證明,是這個意思吧。 雖是極其費心之事,但放棄了思考的精神,便無異於已死。
まさにそこなのよ。古代ギリシャの賢者から二十一世紀の物理学者に至るまで、人類が紡いできた知の歴史は、結局のところ「分からない」ことを誠実に分かろうとしてきた営みの連鎖にほかならないわ。
正是這一點。 從古希臘的賢者到二十一世紀的物理學家,人類所編織的知識史,歸根結底,無非是一連串誠實地試圖去理解「不知道」之事的努力。
では、相対主義に陥ることなく謙虚さを保つには、どのような態度が求められるのだろうか。確信と懐疑の絶妙な均衡 ── 言うは易く、行うは難し、だ。
那麼,要在不陷入相對主義的同時保持謙遜,又需要怎樣的姿態呢? 信念與懷疑之間微妙的平衡——說來容易,行之實難。
私はね、真理を「目的地」ではなく「方角」として捉えるべきだと考えているの。たどり着くことはなくとも、その方向を見失わずに歩み続けることはできる。北極星のようなものよ。
我啊,認為應將真理視為「方向」,而非「目的地」。 即便永遠抵達不了,也仍可不失方向地繼續行走。 就像北極星一樣。
美しい比喩だ。しかし、その方角を見失った者 ── すなわち、思考の怠惰に身を委ねた者たちを、君はどう評するのかね。
這比喻很美。 但是,對於那些迷失了方向的人——也就是任由思考惰性蔓延的人,你又會作何評價呢?
非難するよりも、惜しむわ。彼らとて、いつか立ち止まり、星を見上げる夜が訪れるかもしれない。我々哲学者の務めは、その夜が来たときに差し出せる言葉を、絶えず磨き続けることなのだから。
與其指責,我更感到惋惜。 他們也總有一天會駐足停下,仰望星空的夜晚或許終會到來。 我們哲學家的使命,正是在那一夜降臨之時,能夠遞出可供之言——為此不斷地琢磨。
なるほど。今宵の対話によって、私自身、随分と濁った頭が澄んできたよ。深く感謝する。
原來如此。 今夜的對話,讓我自己渾濁的腦袋也清明了不少。 深表感謝。
それはこちらの台詞よ。問い続ける友人がいるからこそ、私もまた問い続けることができる。ここからまた、それぞれの思索を歩み始めましょう。
這才是我該說的話。 正因有不斷追問的朋友存在,我才得以繼續追問。 從此處起,讓我們各自再邁開思索的腳步吧。