「生きがい」という言葉ほど、訳しように訳せない日本語も珍しい。英語に直そうにも、purposeでもreason to liveでもしっくりこず、結局そのままikigaiと書かれることが多い。近年では、英語の辞書にもそのままの形で項目が立つに至った。

很少有日语词能像「生存意义」(ikigai)这样令人束手无策。 想译成英语,purpose也好,reason to live也好,总归不到位,最后大多干脆原封不动地写作ikigai。 近年来,这个词甚至已直接以日语原形被收入英语词典。

語源を辿れば、動詞「生きる」に「甲斐」という古語が結びついた合成語である。「甲斐」とは、行為に見合うだけの値打ちのことを意味する。つまり生きがいとは、生きるという営みそのものに釣り合うだけの手応えを指していると言ってよい。

追溯词源,它是由动词「活着」与古语「甲斐」结合而成的合成词。 「甲斐」指的是一件事所产生的与之相称的价值。 换言之,「生存意义」所指的,正是与「活着」这一行为本身相称的那份分量。

この概念を学問として正面から扱った最初の本は、精神科医神谷美恵子が一九六六年に世に出した『生きがいについて』であった。彼女がハンセン病の療養所で患者たちと向き合った長い歳月の中から紡ぎ出された言葉は、半世紀以上を経てもなお新鮮な響きを失っていない。生きがいとは、未来への希望でもあれば、過去への納得でもあり、現在の充足でもあるという。何かひとつに還元しようとしてできるものではないのだと、彼女は繰り返し書いている。

最早把这一概念作为学问严肃看待的著作,是精神科医生神谷美惠子于一九六六年问世的《关于生存意义》。 她在麻风病疗养所与患者相处的漫长岁月中提炼出的文字,时隔半个多世纪依然清新动人。 她说,生存意义既是对未来的希望,也是对过去的释然,更是对当下的充实。 她反复强调,它绝非可以被还原为其中任何一项的东西。

岡山県の山あいに、田中さんという八十四歳の農家がいる。毎朝五時には起き、まだ薄暗い畑に出て、トマトやナスの様子を見て回るのが日課である。腰は曲がり、指は土に染まって黒い。それでも畑に立つときの彼の表情は、不思議なほど若々しい。

在冈山县的山间,住着一位八十四岁的农民田中先生。 每天清晨五点便起床,走进还略带昏暗的田地,巡看番茄和茄子,是他的日课。 他腰背已弯,手指因泥土而发黑。 然而站在田间时,他的神情却年轻得不可思议。

「畑があるから、朝が来るのが楽しみでね」と田中さんは笑う。年金だけでも暮らせるが、収穫した野菜を近所に配って回ること、その「ありがとう」のひとことが何より嬉しいのだという。生きがいとは、こうした日々の小さな循環の中に宿るものなのかもしれない。

「正因为有田,才让人盼着早晨的到来」,田中先生笑着说。 光靠养老金本也能过日子,但把收成的蔬菜分送给左邻右舍、换来一句「谢谢」,对他来说才是最大的喜悦。 生存意义,或许正栖息于这样日复一日的小小循环之中。

一方、東京で働く二十四歳のイラストレーター佐藤さんは、まったく別の角度から生きがいを語る。締め切りに追われる夜中、ペンを走らせている瞬間、時間が消える感覚があるのだという。「描き始めるが早いか、気づけば朝になっているんです」と彼女は言う。

另一面,在东京工作的二十四岁插画师佐藤小姐,则从全然不同的角度谈论生存意义。 被截稿日追赶的深夜,钢笔在纸上飞奔的瞬间,时间会像消失了一样——她如是说。 「一开始落笔,回过神来已是清晨了」,她说。

世間からすれば不安定極まりない働き方ではあるが、佐藤さんに後悔はないらしい。月末の家賃の支払いに四苦八苦する日々ではあるものの、絵を描かない人生など考えるだに息苦しいのだそうだ。若い世代における生きがいは、しばしばこうした没入の喜びと結びついている。

按世俗眼光,她的工作方式不安定到了极点,但佐藤小姐似乎并无悔意。 即便每到月底都要为房租焦头烂额,可一想到没有绘画的人生,光是想想就觉得透不过气。 年轻一代的生存意义,往往与这种沉浸的喜悦紧紧相连。

近年、海外で「ikigaiダイアグラム」なるものが大流行している。「好きなこと」「得意なこと」「世の中が必要としていること」「お金になること」の四つの円が交わる中心に生きがいがあると説く図である。しかし、これは厳密に言えば日本における伝統的な生きがい観とはかなり異なるものだ。

近年来,海外掀起了一股名为「ikigai图解」的热潮。 这是一张图,把「自己喜欢的事」「自己擅长的事」「世界所需要的事」「能赚到钱的事」四个圆相交的中心,定义为生存意义。 但严格说来,这与日本传统的生存意义观相去甚远。