JLPT N1 · 日常生活 に戻る
JLPT N1日常生活

オーバーツーリズムの課題

祇園の私道規制から富士山の目隠し、宿泊難まで、観光公害と住民生活の現場を歩く。

朝七時半、京都市バス206系統の停留所には、すでにスーツケースを抱えた観光客の長い列ができている。出勤前に乗り込もうとした地元の会社員は、扉が開くなり押し寄せる人波に阻まれ、結局見送らざるを得ない。三本待ってようやく乗れたという話も、いまや珍しくないどころか、日常の風景と化している。

「以前は十五分で職場に着けたんですけどね」と、ある四十代の女性は苦笑する。停留所のベンチに腰掛けながら、彼女は次のバスが来るまでの十分間を、ただ立ち尽くすほかなかった。経済効果という言葉だけでは到底片づけられない現実が、彼女の通勤路にはあった。

2024年以降、円安と航空便の回復を背景に、訪日外国人観光客の数は過去最高を更新し続けている。観光庁の統計によれば、年間の延べ人数はコロナ前を大きく上回り、消費額に至っては五兆円規模に達したという。数字だけを見れば、観光立国政策は功を奏したと言えなくもない。

しかし、その繁栄の裏側で、いわゆる観光公害が全国各地で噴出している。祇園の私道に立ち入って舞妓を追い回す観光客、富士山の絶景スポットに殺到しては路上に座り込んで撮影を始める集団、住宅街の玄関先にゴミを置き去りにする宿泊客。住民の忍耐にもほどがあるという声が、各地から上がっているのである。

祇園では2024年春、ついに観光客の私道への立ち入りを禁止する措置が取られた。「舞妓パパラッチ」と揶揄される行為に業を煮やした地元町内会が、市と協議のうえ独自の規制に踏み切ったのだ。看板を立てるのみならず、違反者には罰金を科すという徹底ぶりで、ようやく一定の効果を挙げている。

富士山においても、山梨県側の登山口で入山料の徴収が始まった。さらに、河口湖町のローソン前では、富士山を背景に写真を撮ろうとする観光客が車道にあふれ出す事態が頻発したため、町は黒い目隠しスクリーンを設置するに至った。観光地を守るためとはいえ、絶景に幕を引かざるを得ない措置は、何とも皮肉な光景である。

問題は都市部にとどまらない。世界遺産の白川郷では、季節を問わず観光バスが村内に押し寄せ、住民の軽トラックが農道で立ち往生する始末だ。冬の雪景色を一目見ようと駆けつける来訪者の中には、私有地の田畑に踏み込む者すらいる。住民にしてみれば、生活の場が無断で見世物にされているような感覚であろう。

宿泊施設の不足も深刻だ。京都市内のホテル稼働率は連日九割を超え、宿泊料金は数年前の二倍以上に跳ね上がった。出張で泊まろうにも泊まれないというビジネスマンの嘆きが、SNSにあふれている。地元住民が冠婚葬祭で親族を呼び寄せようにも、手頃な宿が見つからないという声まで聞かれる始末だ。

民泊の急増もまた、地域社会に新たな摩擦をもたらしている。マンションの一室が無許可で民泊に転用され、深夜に大きなスーツケースを引きずる音や、廊下での大声に悩まされる住民が後を絶たない。管理組合が規約を改めようにも、所有者の合意形成に手間取り、対応は後手に回りがちである。

こうした事態を受け、各自治体は対策に乗り出している。京都市は宿泊税を最大一万円にまで引き上げる方針を打ち出し、観光客の集中する時間帯にバス専用の料金体系を導入することも検討されている。観光客あっての観光業ではあるものの、住民あっての観光地でもあるという認識が、ようやく行政に浸透してきたと言えよう。

二重価格制度の議論も急速に進んでいる。すでに姫路城では、海外からの観光客の入場料を地元住民の四倍に設定する案が市長から示された。「差別ではないか」との批判もあるが、文化財の維持費を考えれば、応分の負担を求めるのは無理からぬ話だ。海外の主要観光地では、すでに同様の措置が珍しくない。

観光業に携わる事業者の心情は複雑だ。ある老舗旅館の女将は、「お客様が増えるのはありがたい限りですが、地元の方々に申し訳ない気持ちもあって」と打ち明ける。短期的な収益と長期的な地域との共存、その狭間で苦渋の選択を迫られる経営者は少なくない。利益を追い求めるあまり、地域の魅力そのものを損なってしまっては元も子もないのである。

観光客の側にも、変化の兆しは見える。最近では、有名スポットを避けて地方の小さな町を訪れる「分散型観光」を志向する旅行者が、欧米圏を中心に増えてきた。SNSで話題になりにくい場所ほど、かえって本物の日本に出会えるという認識が広まりつつあるのだ。観光地の側も、こうした層をいかに取り込むかが、今後の鍵となるだろう。

夕方、再びあの停留所に戻ると、観光客の列はさらに伸びていた。地元の高校生たちは、もはやバスを諦めて自転車で坂道を漕ぎ上がっていく。観光と生活の境界線を、誰がどう引くのか。答えは一朝一夕には出るまいが、模索を続けるほかに道はない。

持続可能な観光のあり方を真剣に問い直さなければ、京都も富士山も白川郷も、やがては「住む人のいない観光地」と化してしまいかねない。訪れる側と迎える側、双方の歩み寄りなくしては、真の意味で豊かな観光体験は生まれ得ないのである。

— 完 —