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JLPT N1日常生活

食品ロスのゆくえ食品浪費的去向

深夜のコンビニから子ども食堂まで、日本の食品ロスの現場ともったいないの行方を辿る。從深夜便利商店到兒童食堂,追尋日本食品浪費的現場與惜物精神的去向。

深夜一時を回った頃、犬の散歩がてら近所のコンビニの前を通りかかると、裏口に大きなビニール袋がいくつも積み上げられているのを目にした。袋の口から顔を出しているのは、賞味期限を数時間過ぎただけの弁当やサンドイッチ、唐揚げ、おにぎりの類である。まだほのかに温かささえ残っていそうな包みが、明日の朝にはごみ収集車に運ばれ、焼却炉の中へと消えていく。

深夜過了一點,我順道遛狗經過附近的便利商店,看到後門堆著好幾個大塑膠袋。 從袋口探出來的,是賞味期限才剛過幾個小時的便當、三明治、炸雞和飯糰之類。 那些彷彿還殘留著一絲溫熱的包裝,到明天清晨就會被垃圾車載走,消失在焚化爐裡。

店長らしき男性に話を聞くと、廃棄量は一日当たり段ボール二箱分にもなるという。「もったいないと思わずにはいられませんが、衛生上の理由でどうにもなりません」と、彼は苦笑いを浮かべた。法律に縛られている手前、勝手に分け与えるわけにもいかないらしい。

我向看似店長的男子打聽,他說每天廢棄的量足足有兩個紙箱那麼多。 「不能不覺得可惜,可是基於衛生考量,實在沒辦法。 」他苦笑著說。 礙於法規,他似乎也不能擅自把食物分送給別人。

日本の食品ロスは年間およそ五百万トンに上ると推計されている。これを国民一人当たりに換算すれば、毎日茶碗一杯分のご飯を捨てている計算になる。世界中で飢餓に苦しむ人々が数億人もいることを思えば、この浪費は痛恨の極みと言うほかない。

日本的食品浪費據推估每年約達五百萬公噸。 換算成平均每個人,相當於每人每天倒掉一碗飯。 想到全世界仍有數億人在飢餓中掙扎,這種浪費實在只能說是令人痛心至極。

食品ロスの発生源は、事業系と家庭系に大別される。事業系を語るうえで避けて通れないのが、業界の長年の商慣習である「三分の一ルール」だ。製造日から賞味期限までを三等分し、最初の三分の一を過ぎた商品はもう小売店に納品できないという、いわば自主規制である。

食品浪費的來源大致可分為事業系與家庭系。 談到事業系,就繞不開業界長年的商業慣例——所謂的「三分之一規則」。 把從生產日到賞味期限的時間三等分,過了第一個三分之一就不能再供貨給零售店,可以說是業界自我約束的一種做法。

このルールに従う限り、まだ十分食べられる商品が、店頭に並ぶ機会すら与えられずに廃棄される。合理的な品質管理どころか、あまりに杓子定規だと言わざるを得ない。近年は大手メーカーや小売チェーンが見直しに動き始めたものの、業界全体が変わるには更なる時間を要する。

只要這條規則仍在通行,明明還完全可以食用的商品,連擺上貨架的機會都得不到便遭丟棄。 這與其說是合理的品質管理,倒不如說過於僵化。 近年來雖然已有大型廠商和零售連鎖開始著手檢討,但要讓整個產業改變,恐怕還需要更多時間。

家庭から出る食品ロスも看過できない。冷蔵庫の奥で忘れ去られた野菜、特売につられて買いすぎたまま腐らせた肉、子どもが残した夕食の半分。一回一回の無駄は些細なものに見えようが、年間を通せば一世帯当たり六万円にも相当するという試算もある。

家庭端產生的食品浪費也不容忽視。 冰箱深處被遺忘的蔬菜、被特價吸引買得過多任其腐壞的肉、小孩沒吃完的半盤晚餐。 每一次的浪費看似微不足道,但根據估算,一整年累積下來,每戶家庭竟相當於六萬日圓。

我が家でも先日、半年ぶりに冷蔵庫の大掃除をしたばかりである。奥から発掘された緑色に染まった豆腐、しなびて干からびた人参、開封したきり忘れられた味噌、賞味期限を一年も過ぎたドレッシング。並べてみれば、その種類の多さと量に唖然とし、自分の管理能力のなさにあきれずにはいられなかった。

我家前陣子也才做了半年來頭一次的冰箱大掃除。 從最裡面挖出來的是已經變綠的豆腐、乾癟萎縮的紅蘿蔔、開封後就被擱到一旁忘掉的味噌、賞味期限早已過了整整一年的沙拉醬。 把它們一字排開,看著種類和數量之多不禁啞然,更不能不對自己管理能力的低落感到愕然。

「もったいない」という言葉は、日本人の生活感覚に深く根を下ろしている。物を粗末にしてはいけないという教えは、祖父母の世代であれ、孫の世代であれ、食卓の上でごく自然に伝えられてきた。茶碗にご飯粒一つ残せば、「お米を作ったお百姓さんに申し訳ない」と諭された記憶のある人も少なくないだろう。

「可惜物」這個觀念早已深深紮根於日本人的生活感受之中。 教孩子不可以糟蹋東西的訓誡,不論是祖父母那一代還是孫子輩,都自然而然地在餐桌上口耳相傳。 許多人想必都還記得,飯碗裡如果剩下一粒米,長輩便會叮嚀:「想想種稻的農夫,這樣太對不起人家了。 」

ところが、戦後の高度経済成長と飽食の時代を経て、この感覚は徐々に薄れつつあるように思える。スーパーには色とりどりの食材が溢れ、コンビニは二十四時間営業で出来立ての食事を提供する。豊かさの恩恵に浴する一方で、私たちは食べ物のありがたみを忘れかけているのかもしれない。

然而,歷經戰後高度經濟成長與飽食年代之後,這種感受似乎正在逐漸淡薄。 超市裡五顏六色的食材琳瑯滿目,便利商店二十四小時不間斷地供應現做的餐點。 盡情享受富足恩澤的同時,我們或許正漸漸忘記對食物心懷感恩。

近所のスーパーに行くと、最近「食品ロス削減コーナー」と称する一角が設けられているのに気づく。賞味期限が近い商品が三割引、半額のシールを貼られて並んでいる。以前ならば棚の奥に追いやられていた即期商品が、こうして堂々と特設の位置を占めるようになったのは、ささやかながら歓迎すべき変化である。

到附近的超市走走,最近會發現多了一塊名為「食品浪費削減專區」的區域。 即期食品貼著七折、半價的標籤陳列其中。 從前會被塞到貨架深處的即期商品,如今竟堂堂占據這樣專屬的位置,雖然不大,卻也算是令人欣慰的轉變。

行政の動きも本格化している。二〇一九年に食品ロス削減推進法が施行されたのを皮切りに、自治体ごとに削減目標が掲げられるようになった。事業者への啓発はおろか、学校教育の現場でも、食品ロスを題材にした授業が実施されている。

行政層面的動作也開始全面展開。 自二〇一九年《食品浪費削減推進法》施行以來,各地方政府紛紛訂出削減目標。 別說是針對業者的宣導,連學校教育現場也已開始以食品浪費為主題開課。

民間の取り組みも見逃せない。フードバンクは、まだ食べられるのに流通から外れた食品を、生活困窮者や子ども食堂に届けている。週末、地元の子ども食堂を覗いてみると、寄付された米や野菜で作った温かい食事を、子どもたちが嬉しそうに頬張っていた。

民間的努力同樣不可忽略。 食物銀行把雖然還完全可以食用、卻已被通路淘汰的食材送往生活困苦者和兒童食堂。 某個週末我去附近的兒童食堂看了看,孩子們正津津有味地大口吃著用人們捐贈的米和蔬菜做成的熱騰騰飯菜。

運営する女性に話を聞けば、彼女自身もかつてシングルマザーとして貧困のなかで子育てを経験し、近所の人々の善意に幾度となく救われたという。「捨てられるはずだった食材が、子どもたちの笑顔に変わる。これほど嬉しいことはありません」と語る彼女の声には、活動の意義への確信と、支援者への感謝に堪えない響きがあった。

向經營這家食堂的女士打聽,才得知她自己曾是單親媽媽,也在貧困中獨自帶大孩子,多虧鄰里的善意才一次又一次撐了過來。 「原本要被丟掉的食材,竟然能換成孩子們的笑容,再沒有比這更讓人開心的事了。 」她的話語裡,既有對這份事業意義的篤定,也有對支持者那份難以言喻的感激。

技術の力も新たな解決策をもたらしつつある。アプリで近隣の店の売れ残りを格安で買えるフードシェアリング、AIによる需要予測で発注量を最適化する仕組み、賞味期限を延ばす包装技術。これらの試みが本格的に普及すれば、食品ロスの大幅な削減も夢ではあるまい。

科技的力量也正帶來新的解方。 可以用便宜價格買下附近店家剩餘商品的剩食分享應用程式、運用人工智慧預測需求進而最佳化進貨量的機制、能延長賞味期限的包裝技術。 這些嘗試只要真正普及開來,要大幅削減食品浪費也並非遙不可及的夢想。

しかし、いかに法律を整え、技術を駆使しようとも、結局のところ問題の核心は私たち一人ひとりの意識いかんにかかっている。買い物の前に冷蔵庫を確認する、食べ切れる量だけ作る、外食では食べ残しを持ち帰る。こうした小さな実践なくして、食品ロス削減はあり得ない。

然而,無論法律如何完備、科技如何精進,問題的核心終究取決於我們每一個人的意識。 買東西前先看一眼冰箱、煮菜只煮吃得完的份量、外食時把吃不完的打包帶回家。 少了這些小小的實踐,食品浪費削減就無從談起。

食卓で「いただきます」と手を合わせるあの一瞬は、植物であれ動物であれ、命をいただくことへの感謝を表す日本独特の文化である。この当たり前の所作を改めて噛みしめながら、今夜もまた、冷蔵庫の中身と相談して夕食の献立を考えることにしよう。たかが一食分の心がけと侮るなかれ、その積み重ねこそが、巡り巡って世界を変える一歩となるはずである。

飯前合掌輕聲說一句「我要開動了」的那一瞬間,是日本獨有的文化,表達對奪取生命——無論是植物還是動物——的感激。 一邊重新細細品味這個再平常不過的動作,今晚也先看看冰箱裡有什麼,再來想晚餐的菜單吧。 別小看一頓飯的用心,正是這點點滴滴的累積,最終才會化作改變世界的一步。

— 完 —