高瀬舟は、京都の罪人を遠い島へ送るための小舟だった。徳川時代、京都の奉行所で死罪を免じられて島流しを言い渡された罪人は、まず高瀬川を下り、大阪を経て島へと送られたのである。
高瀨舟是將京都罪人送往遠島流放的一艘小船。 德川時代,京都町奉行所判處死罪減免為遠島流放的罪人,先沿高瀨川南下,經大阪再被送往島上。
罪人を護送するのは、奉行所の同心がたった一人だった。その同心は、罪人の親類のうち一人だけ、舟に同乗することを許し、共に夜を明かしながら大阪まで下るのが慣わしだった。
押送罪人的,是町奉行所的一名同心。 按慣例,罪人的親屬中只許一人同船,同心便與罪人一道,徹夜送至大阪。
そのような高瀬舟に、ある春の夕暮れ、喜助という三十歳ほどの男が、護送同心の羽田庄兵衛とともに乗り込んだ。喜助は弟殺しの罪に問われ、島流しが決まった者だった。
某年春日的傍晚,一名年約三十、名喚喜助的男子,便登上了這樣一艘高瀨舟,由押送同心羽田庄兵衛陪同。 喜助被控殺弟之罪,已被判定遠島流放。
舟が川を下り始めた頃、月がぼんやりと出てきた。庄兵衛は、いつものように罪人の様子をひそかに観察した。普通であれば、罪人というものは、行く末を案じて暗い表情を浮かべているか、肉親との別れを嘆いて涙にくれているものである。
船開始順流而下時,月亮朦朧地升了上來。 庄兵衛照例暗中觀察罪人的樣子。 尋常的罪人,或憂慮前途而面色沉痛,或為骨肉離別悲泣不已。
ところが喜助はそのいずれでもなかった。彼は舟の先の方を向いて静かに座り、その顔には穏やかな、むしろ晴れやかとも見える色さえ浮かんでいた。これほど落ち着いている罪人を、庄兵衛はかつて見たことがなかった。
然而喜助卻無一類於此。 他靜靜面向船頭而坐,面上甚至浮現出平和、近乎開朗之色。 如此沉靜的罪人,庄兵衛此前從未見過。
不思議に思った庄兵衛は、ついにこらえきれず声をかけた。「喜助、お前はこれから島へ送られる身であるのに、何を喜んでいるのだ」と問うた。喜助は静かに振り返り、恐縮した様子で「ご親切に有難く存じます」と答えた。
庄兵衛終於忍不住開口問道:「喜助,你眼看就要被送往島上,有什麼好高興的? 」喜助靜靜回頭,恭敬地答道:「承蒙關心,不勝感激。 」
「私はこれまで、その日の食べ物さえおぼつかない暮らしを続けてまいりました。両親も早くに亡くし、弟と二人、人の家に雇われては転々と生きてまいりましたが、なかなか食うに困らない身分にはなれませんでした」と喜助は語り始めた。
「我向來過著今日不知明日餐食的日子,」喜助開始說,「雙親早年便已亡故,我與弟弟二人輾轉受雇於人家,卻始終未能掙得一口安穩的衣食。 」
「ところがこの度、お上から二百文の銭を頂きました。これは私が今までに、一度に手にしたことのない大金でございます。島へ参れば、お国の費用で生かしていただけるとも伺いました」と彼は続けた。
「然而此次,蒙官府賜下二百文錢。 這是我有生以來一次到手的最大一筆錢了。 聽說到了島上,朝廷還會負擔我的衣食起居,」他繼續說道。
「島は鬼の住む場所だと申す者もおりますが、私にとっては、雨露をしのぐ家とその日の食べ物さえあれば、どこへ行こうとも極楽でございます。こうしてお情けで送っていただくのは、もったいないほどの幸せでございます」と喜助は深々と頭を下げた。
「也有人說島是惡鬼住的地方,但對我而言,只要有遮風雨的屋頂、一日三餐,無論去往何處都是極樂。 能蒙朝廷恩典送我前往,這已是過分的幸福,」喜助深深叩首。
庄兵衛は彼の言葉に深く心を打たれた。自分は妻と子のある身として、毎月の給料でかろうじて暮らしを立て、不意の出費があればたちまち借金をする身だった。それでいて自分を貧しいと感じることはあっても、喜助のように今の境遇に感謝の念を抱くことは、一度もなかったのだ。
庄兵衛被他的話深深觸動。 自己身為有妻有子之人,靠每月的俸祿勉強維生,遇到意外開銷便要立刻舉債。 即便如此,他雖時時覺得自己貧困,卻從未對自身的處境懷抱過如喜助般的感激之心。
「喜助、お前の罪について聞いてもよいか。役目の上ではなく、ただお前という人を知りたいのだ」と庄兵衛は静かに切り出した。喜助は少し考えた後、深い息をついて、ぽつりぽつりと語り出した。
「喜助,可以讓我問問你的罪狀嗎? 我並非以公職身分相問,只是想知道你這個人,」庄兵衛靜靜地切入話題。 喜助沉思片刻,深吸一口氣,斷斷續續地開口講了起來。
「弟は肺の病を患い、長らく床についておりました。私が稼ぎに出ている間、家でただ寝ているしかなく、自分が足手まといになることを、ひどく気にして苦しんでおったのでございます」と喜助は語った。その声には、深い哀しみがにじんでいた。
「弟弟患了肺癆,長期臥床不起。 我外出做工時,他只能在家裡躺著,心中深以自己成了我的累贅為苦,」喜助說道。 聲中浸透著深深的哀愁。
「ある日、仕事から戻りますと、弟はのどにかみそりを立てて、血の海の中に倒れておりました。死にきれずまだ息があり、苦しい息の下から、『かみそりを抜いて、お願いだから楽にしてくれ』と強く頼んだのでございます」。
「有一天,我做完工回到家,看見弟弟咽喉上插著剃刀,倒在血泊之中。 他沒能死成,還在喘息,從痛苦的呼吸下哀求道:『抽出剃刀,求求你,讓我解脫吧』。 」
庄兵衛は息を呑んで、その先を促した。喜助は涙をこぼしながら、「私は途方に暮れました。かみそりを抜けば弟は死にますが、抜かなければ、弟はあの苦しみのまま、もがき続けなければならないのでございます」と続けた。
庄兵衛屏息催他往下說。 喜助流著淚繼續:「我手足無措。 剃刀若拔,弟弟必死無疑;若不拔,弟弟便要繼續在那痛苦中掙扎下去。 」
「弟の目は、ただひたすらに、私がかみそりを抜いてくれることを願って、私を見つめておりました。私は逃げられず、ついにそのかみそりを引き抜いてしまったのでございます。その時の弟の目に浮かんだ、安心にも似た色を、私は生涯忘れることはないでしょう」と喜助は語り終えた。
「弟弟的眼裡,只一心一意望著我,懇求我拔出剃刀。 我無可逃避,終於將那把剃刀拔了出來。 那時弟弟眼中浮現的、近似安堵的神色,我此生都不會忘記,」喜助說完。
ちょうどそこへ、近所の婆さんが入ってきたのだった。婆さんは血まみれの喜助と、息絶えた弟を見て大声を上げた。役人が呼ばれ、喜助は弟殺しの罪人として捕らえられることとなった。「役人様にどう申し開きをしても、お分かりいただけませんでした」と彼は静かに付け加えた。
恰在此時,鄰家的老婆婆走了進來。 她看見渾身是血的喜助與已經斷氣的弟弟,驚叫出聲。 官府被叫來,喜助便作為殺弟之罪人被拘了。 「無論我對官差如何辯解,他們都不肯聽明白,」他靜靜補上一句。
その話を聞き終えた庄兵衛の胸には、すぐには答えがたい疑問が湧いてきた。「これは果たして罪と呼ぶべきものだろうか。弟は死を望み、兄はその苦しみから救ってやろうとしただけだ。これを人殺しと裁くのは、本当に正しい判断だろうか」。
聽完這番話,庄兵衛胸中升起一個難以即刻回答的疑問。 「這果然能叫作罪嗎? 弟弟渴求一死,做哥哥的只想替他從痛苦中解脫出來。 把這判為殺人,當真就是公正的裁斷嗎? 」
しかし、お上が罪と定めたものを、一介の同心である庄兵衛が、自分の判断で覆すことはできなかった。お上の権威に従わざるを得ないとはいえ、彼の中に生じたわだかまりは、ぬぐい去ることができないほどに重いものだった。
然而,朝廷既已定為罪行,身為一介同心的庄兵衛,無力以自身的判斷推翻。 儘管不得不服從朝廷的權威,他心中生出的違和,仍重得無法拂去。
高瀬舟は静かに川を下っていった。月はぼんやりと空を渡り、川面には舟影が長く揺れていた。庄兵衛は、いつまでもいつまでも、喜助の語った話と、それに対するお上の裁きと、自分の中に生じた疑問とを、黙ったまま考え続けていた。
高瀨舟靜靜地順流而下。 月亮朦朧地越過夜空,船影在水面上長長地搖曳。 庄兵衛久久地、久久地,對喜助所講之事、朝廷對此的裁決,以及自身心中升起的疑問,默默反覆思量著。